銅器

銅器

中国青銅器の製作年代

后母戊鼎(司母戊鼎)河南安陽武官村出土 殷後期

銅は、人類がもっとも古くから利用しはじめた金属である[3]19世紀デンマークの考古学者クリスチャン・トムセンは、人類の先史文明を「石器時代」「青銅器時代」「鉄器時代」という3つの時期に区分することを提唱した。これは、ある文明における青銅器や鉄器の出現を、当該文明が新たな段階に入ったことの指標とみなす考え方である。青銅とは銅を主成分として錫(および)を含む合金を指すが、青銅器の使用以前に錫を含まない自然銅を使用していた文化を銅器時代または金石併用時代と称する場合もある。古代のエジプトや西アジアの文明は、おおむね紀元前4000年紀の半ばには青銅器時代に入っているが、中国文明が青銅器時代に入ったのはエジプトや西アジアに比べてかなり遅く、紀元前2000年紀前半の二里頭文化期からである[4]。それ以前、新石器文化に属する甘粛省青海省斉家文化(紀元前2200年頃 – 紀元前1600年頃[4])でも銅製の刀子、(のみ)などの小型の道具がすでに製作されていたが、この文化は金石併用段階とみられる[5]。なお、斉家文化の銅製品には青銅のものと紅銅(純銅)のものがあり、青銅器時代に先立って純銅のみを使用していた「銅器時代」の存在は中国では確認できない[3]

斉侯匜 西周後期 上海博物館

中国が金石併用文化から青銅器文化の段階に入るのは、河南省偃師市二里頭遺跡を標識遺跡とする二里頭上層文化期(二里頭3・4期)である。この文化の実年代は論者によって異なり、正確には決めがたいが、おおよそ紀元前1700年頃と考えられている。この二里頭上層文化の遺物については、これを中国最古の夏王朝の文化とみなす見方と、(商)の初期に属するとする見方とがあるが、いずれにしてもこの文化が中国最古の青銅器文化とみなされている[6]

(時代と王朝名表記について)本項では、二里頭文化期の遺物については、「夏」「殷」の王朝名は用いず、「二里頭文化期」と表記する。「殷」は『史記』で用いられる表記で、現代中国語では通常「商」(または「商殷」)と表記されるが、本項では混乱を避けるため、日本語圏で一般的な「殷」の表記に統一することとする。

美術品として評価の高い殷周時代の青銅容器は、単なる酒器食器ではなく、宗教的儀礼のための祭器であり、後には器の所有者の地位や権威を象徴する政治的・社会的意味も担った。中国の青銅器時代は(紀元前1600年頃 – 紀元前1050年頃)から西周時代(紀元前1050年頃 – 紀元前771年)を経て、春秋時代(紀元前770年 – 紀元前453年/403年)まで継続し、春秋時代と次の戦国時代の交代期あたりに鉄器時代に入ったとみなされている[7]。青銅製の器物はその後も時代までは引き続き製作されるが、中国を統一した秦は、周の制度を徹底的に否定したため、従来のような礼器の製作は終わり、青銅で作られる器物は燭台、香炉といった日常生活用品が主体となった。それもやがて衰退していくが、例外的に作り続けられたのは銅鏡である。青銅製の鏡は他に適当な代替材料がなかったため、18世紀に至るまで作り続けられた[8]

特色[編集]

食人虎卣 殷後期 チェルヌスキ博物館

中国古代青銅器には、武器、楽器などもあるが、現代において芸術品として高く評価されているのは酒器、食器などの大型の容器類である。これらの器物は用途に応じてさまざまな器種があり、複雑な形態と精緻な文様を有する。これらの器物は単なる日用品や美術品ではなく、神や先祖を祀る祭器としての宗教的な意味と機能とを有する神聖な器物であった[9]。特に二里頭文化期から殷代には祭祀において酒の果たす役割が大きく、最初期に作られた青銅容器はもっぱら酒器であった。クロキビから醸造した神酒や収穫した穀物を神や祖先の霊に捧げ、祭祀の終了後の宴席においては、人々がそれらを飲食したと考えられている[10]。宗廟に備える神聖な器を総称して彝器(いき)というが、「彝」の象形文字は、人がを羽交い絞めにしている様子を表し、彝器とは、鶏の血で清められた器の意であった[11]

青銅器は当時においては貴重品であり、鋳造には貴重な金属原料と燃料、多くの労働力と高度な技術とを要したため、青銅器を所持できる者は強大な権力をもった支配者層に限られていた。「鼎の軽重を問う」という成句が示すように、青銅器は権威の象徴であり、宗教的機能とともに、器の所持者の地位を象徴する政治的・社会的役割をも担うようになっていった[12]

青銅製の酒器や食器には互いに形態を異にする数多くの器種があり、それぞれに「爵」「尊」「壺」「鼎」などの器名がついている。このうちもっとも早く登場するのは「爵」と呼ばれる温酒・飲酒のための器である。二里頭文化期(紀元前1700年頃 – 1600年頃)の青銅器にはほとんど文様がなく、鋳造技術も未熟で、器種も爵を含めごくわずかであった[13]。続く殷前期(紀元前1600年頃 – 1300年頃)になると、鋳造技術が向上して大型の器が登場し、器種、文様ともに多彩になる。殷時代後期から西周時代前期(紀元前1300年頃 – 950年頃)は中国青銅器のピークで、文様はより緻密になり、浮彫風の立体的な表現になっていく。

中国古代青銅器の特色は、器形とともに、その表面を覆い尽くす複雑精緻な文様にある。これらの文様モチーフの大部分は、などの想像上の動物と、などの実在の動物を含む動物文である。なかでも殷周時代の青銅器の主文様として多くみられるものは饕餮文(とうてつもん)と呼ばれる、突出した2つの眼を特色とする獣面文である。当時の人々の鬼神崇拝、自然への畏怖、動物のもつ強大な力に対する崇拝がこうした動物モチーフの背景にあったとされる。

秦漢時代以降、青銅製の祭器・礼器の製作はとだえたが、儒教思想が周の時代を理想としたことから、古代の青銅器は中華精神を体現する霊器として、珍重された。前漢時代には周の青銅器である鼎が出土したことを記念して年号を「宝鼎」と改号したことがあり、古代青銅器の発見は瑞祥とされた。『洞天清禄集』(宋(南宋)・趙希鵠著)という書物には、「古代の青銅器を家に飾れば祟りを避けることができ、花を活ければ、花が長持ちする」という意味のことが書いてある。宋時代以降は古代青銅器を愛玩・収集し研究することも行われた。倣古銅器といって、古代の青銅器の形態を模倣した作品が作られるようになり、仏具、磁器などにも尊、鼎などの古代の器の形を取り入れたものが登場した。[14]

文様[編集]

饕餮文

饕餮文

夔龍文(口縁部と脚部)

夔龍文(口縁部)

以下、中国青銅器にみられる各種文様について略説する。[15]

  • 饕餮文(とうてつもん) – 大きな2つの眼を強調した、左右対称の獣面文である。酒器などの主文様として、目立つ位置に表されていることが多い。眼のほかに大きく曲がった角と、牙をむき出した口を強調しているものが多い。饕餮は顔だけで胴体のない怪物ともいわれるが、実際の作例をみると、顔の両脇に細長い胴体と脚を表現したものも多い[16]呂不韋(戦国時代の秦の宰相)が編纂した『呂氏春秋』「先識扁」には「周の鼎には饕餮を表す」とある。饕餮は頭はあるが身体がなく、人を食って呑み込まないうちに害がその身に及んだ。つまり、罰を受けて身体がなくなってしまったのだという。『春秋左氏伝』(文公18年)には、黄帝の時代に大食漢の悪臣がおり、人は彼を饕餮と呼んだという故事がある。殷周の青銅器に表されている獣面文を饕餮文と呼ぶのは、宋時代の呂大臨が『呂氏春秋』の記述に基づき、『春秋左氏伝』の故事をふまえて、この種の文様を饕餮であると解釈したことに由来する[17]。殷周時代の人々がこの文様を当時どのように呼んでいたかは不明であり、饕餮文は「獣面文」と称するのがより適切だとする説もある[18]。この文様の表す意味についても、正確なことはわかっておらず、当時の人々の想像した天帝の顔を表したものだとする説もある。この文様は殷前期から西周前期の青銅器に盛んに用いられ、西周末期には姿を消した[19]
  • 夔龍文(きりゅうもん) – 細長い胴体に一角と一脚を有するの文様である。水平の文様帯のなかに真横向きに表されることが多い。殷代から用いられるが、龍の形態は次第に変化し、春秋時代からは後述の蟠螭文に変わっていった。龍の文様自体は、以後も中国の伝統的デザインとして現代まで使用されている。
  • 鳳文(ほうもん)・夔鳳文(きほうもん) – 鳳は想像上の霊鳥で、雄を鳳、雌を凰といい、両者合わせて鳳凰という。基本的には鳥の文様であるが、クチバシが極端に曲がっていて、内側に巻き込むように表現されるのが特色である。夔鳳文は龍と鳳の合体した文様で、鳥の特色を持ちながら、細長い胴体に表される。夔龍文と同様に真横向きに表される。鳥は天と地を結ぶものとして、龍と同様に重視された。殷代から用いられ、西周時代には器の主文として用いられるようになるが、春秋時代以降衰退し、戦国時代まで用いられる。漢時代以降は朱雀文、朱鳥文として引き継がれる。
  • 蟠螭文(ばんちもん) – 龍文の一種で春秋時代半ば頃に登場する。「螭」は幼龍の意。複数の龍が互いに複雑にからみ合って複雑なパターンを描くもので、一見すると単なる幾何学文のように見える。
  • 竊曲文(せっきょくもん) – 西周時代後期から現れる。アルファベットの「G」を組み合わせたような文様で、夔龍文の眼の部分だけを残して退化した文様とされる。
  • 鱗文(りんもん) – 副文様として使用される鱗状のパターンを組み合わせた文様
  • 蝉文(ぜんもん) – 鼎などの文様に使われる形の文様
  • 山形文(やまがたもん) – 西周後期の鼎などに用いられるジグザグ文様
  • 蕉葉文(しょうようもん) – 器物の脚部などの装飾に用いられる、長大な二等辺三角形状の文様

器種[編集]

中国古代青銅器の器種は酒器、食器、水器、楽器に大別される。酒器はさらに温酒器、飲酒器、注酒器、盛酒器に大別される。それぞれの器種には、日常あまり使われない、難解な漢字による名称が付されたものが多い。器自体の銘文にその器の名称が記されている場合もあるが、大半の器は、作られた当時どのように呼ばれていたか、正確には不明で、後世の人々が文献に出てくる器名から推測して仮に名称を与えたものが多い[20]

殷時代には祭祀において酒の果たす役割が大きく、酒器の種類は多岐にわたるが、当時の酒がどのようなものであったかは、同時代の文献がないためはっきりしない。甲骨文字には酒を表すものとして鬯(ちょう)、醴(れい)の文字がある[21]。鬯は、秬(クロキビ)を醸造して造る酒で、香りつけとして欝(ウコンソウ)を煮出した汁を加えた。鬯は神に捧げるための特別な酒であった。醴は甘酒の類である[22]

楽器については、青銅で作られたものはすべて打楽器である。むろん、打楽器以外にも(しょう)のような管楽器やのような弦楽器もあり、打楽器にも青銅製以外に木製や石製のものもあった。音楽は悪霊を追い払い、神を喜ばせるという宗教的意味のほか、社会の秩序・調和の象徴という意味合いもあり、単なる娯楽ではなかった[23]

以下、各器種について略説する。[24]

以下の説明中にはJIS水準外の難字が多数登場するが、それらの字形については煩雑をさけるため、後にまとめて説明する。

酒器[編集]

  • (しゃく) – 温酒器、飲酒器。中国の青銅礼器のうち、もっとも早くに出現したものである。二里頭期から作例があり、殷代に盛んに作られたが、西周時代になって作例が減り、西周後期には消滅する。くびれのある胴に三足がつき、把手(鋬)を有し、口縁部は非対称形で、「流」という樋状の注口と、その反対側にバランスを取るための「尾」という三角状の突起がつく。「流」の付け根付近に「柱」という2本の短い棒状のものを立てるのが通例である。「柱」の用途は、ここに何か布状のものを掛けるためと思われる。底部に煤の付着したものがあることから、実際に温酒に使用されたことがわかるが[25]、飲酒器としての意味合いもあったとされる(当時信仰されていた神は、爵を用いて酒を飲むと考えられていた)[26]。爵には大型のものはなく、高さは十数センチから二十数センチ程度のものである。このことは、爵は儀式の際に人が実際に手に持つ器であったことを示唆する[27]
  • (か) – 温酒器。殷前期にわずかな出土例があり[28]、殷前期には盛んに作られ、西周前期まで製作される。三足を有し、器形は爵と似た部分もあるが、爵より大型で、爵と異なり「流」や「尾」をもたない。
  • (こ) – 飲酒器。殷前期からみられ、殷後期に流行するが、西周時代前期には他の器種に取って代わられる。爵とセットで出土することが多い。全体に細長く、口縁部、胴部、脚部に分かれ、口縁がラッパ状に開く。
  • (し) – 飲酒器。殷後期に加わった器種で西周前期まで製作された。觚よりは器体が太く下ぶくれになる。
  • (かく) – 温酒・飲酒器。殷前期にはわずかに出土例があり、殷後期から西周中期にかけて製作された。爵に似るが「流」をもたない。出土例が少なく、特殊な器であったと推定される。
  • (か) – 注酒器。殷前期に現れ、春秋時代以降も製作された。筒状の注口と把手を有し、3本ないし4本の足がつく。蓋を伴うものが多い。欝金草の煮汁を作り、酒と調合するための器と推定される。
  • (そん) – 盛酒器。「尊」は本来は酒器全般の総称であるが、古代青銅器の分類では、上方に向かってラッパ状に開いた広い頸部を有するものを尊と呼んでいる。これには大きく分けて2つのタイプがある。1つ(有肩尊)は頸部、胴部ともに大きく、肩部を広く作るもの。このタイプには断面が方形となる方尊もある。もう1つ(觚形尊)は、脚部・胴部・頸部の3部分が明確に分かれる酒杯形の容器で、さきほどのタイプとは異なり、肩部がない。いずれのタイプも殷前期から西周後期にかけて製作された。これらとは別に、器全体の形状が動物の形をした容器も「尊」と呼ばれ、象尊などの例がある。
  • 方彝(ほうい) – 盛酒器。殷後期から西周中期にかけて製作されたが、数は少ない。断面長方形の身に四柱屋根形の蓋を有するもので、枓(木扁に「斗」、酒を酌むための柄杓)を伴う例もある[29]。銘文を伴う例によると貴族専用の器であった。「彝」は本来は祭器全般を指す言葉であり、「方彝」は、この種の容器の名称が文献にも器の銘文にもみられないことから、仮に名付けたものである。
  • (ゆう) – 盛酒器。殷前期から西周中期まで製作された。提梁と呼ばれる吊り手を有するのが特色で、蓋を伴う。器形は「壺」に似たもの、筒型のものなどさまざまである。提梁がつくことから、酒などの液体を持ち運ぶための容器と考えられる。蓋は身にすっぽりと嵌まるタイプで、密閉性が強いことから、保存用の容器ともみられる。動物を立体的に象った容器で提梁のついたものも卣と呼ばれ、鳥形卣、虎形卣などがある。
  • 兕觥(じこう) – 注酒器。殷後期に集中的に作られ、以後は衰退した。身の部分はカレーソースの容器のような形で、一方に注口、反対側に把手がつく。必ず蓋を伴い、器全体の形は虎、象、羊などの動物を立体的に象る。出土例は少ない。
  • (こ) – 盛酒・盛水器。殷後期から造られ、西周後半から作例が増加し、盛酒器の主要器種となって戦国時代まで引き続き作られた。胴部が張り、口部が狭く、頸部が長く、双耳(持ち手)と蓋を伴うものが多い。器形はバラエティがあり、殷後期には断面偏円形の扁壺が流行した。
  • (ほう) – 盛酒・盛水器。殷後期に集中的に作られた。広口で大型の盛酒・盛水器で、蓋を伴う(紛失している場合もある)。高さよりも横幅が広く、短い頸部と圏足を有する。肩の部分が広いのが特色で、肩に牛首、虎首、羊首などを付すものが多い。小型のものはない。
  • (らい) – 盛酒器。殷後期からみられ春秋時代以降まで長く製作された。壺や瓿と似るが、丈が高く、口部が小さく、頸部が短く、壺とは逆に器の上部の径が太く、底面が狭いのが特色。肩に一対の持ち手がつく。断面方形の方罍もある。殷前期にも罍と称する器はあるが、これは肩に段のついた壺形のものであり[30][31]、上述のような器形のものは殷後期からみられる[29]

食器[編集]

  • (てい) – 煮食器。肉類を煮るためのもので、鍋形の身に三足を有し、上部には一対の持ち手を有する。蓋を有するものもある。脚は太くがっしりしたもの、獣脚を象ったものなどさまざまである。新石器時代の陶器に祖形がみられ、青銅器としては殷前期から戦国時代まで製作された。が付着し、実際に煮炊きに使われたことのわかる個体がある一方で、火にかけた跡がなく、純粋に儀式用のものもある[32]。古代中国の青銅器のなかでもっとも重視されたもので、単なる鍋ではなく、権威の象徴とされた。西周時代には身分に応じて所持できる鼎の数が決められており、同形・同文様で大きさの異なる鼎をセットで揃える「列鼎」が作られた[33]。周王室に伝わった「禹の九鼎」は特に有名であった。「鼎の軽重を問う」という故事もここに由来する。
  • 方鼎(ほうてい) – 煮食器。殷前期から西周後期まで製作された。牛、羊等の犠牲獣を神に捧げるための器で、もっぱら宗廟で用いられた。上記のような用途から巨大なものが多い。
  • (れき) – 煮食器。土器としては新石器時代からある。青銅器としては殷前期から登場するが、殷代には少なく、西周中期から盛行し、春秋時代以降まで長く製作される。器形は鼎と似るが足は中空の袋状になっている。
  • (げん) – 煮食器。下部は鬲、上部は(そう、こしき)で、中間に簀子(すのこ)があり、蒸気によって食物を蒸すためのものである。殷後期に出現し、春秋時代以降も製作されるが、あまり広く普及しなかった。
  • (き) – 盛食器。殷後期から現れ、春秋時代以降まで長期にわたり製作された。調理した穀物を盛るための断面円形の椀状の容器で、身が深く、圏足がつく。蓋や双耳を有するものもある。西周時代には方形の台座を有する儀礼的なものや、口が狭くすぼまった器形のものも登場する。口の狭いものには器面全体に平行線状の文様(瓦文という)をつけることが多い[34]
  • (ほ) – 盛食器。西周後期に登場し、戦国時代まで製作されるが、数は少ない。平面長方形で、身と同形の蓋を有する。蓋は逆さにすれば食器としても使える。
  • (しゅ) – 盛食器。上記の簠を隅丸形にしたもので、西周時代後期から春秋時代中頃まで製作された。数は少ない。
  • (う) – 盛食器。広口の鉢形の身に高台と把手がつくもので、簋に似る。殷後期から西周中期にのみ製作され、数も少ない。
  • (とう) – 盛食器。高脚を伴う高杯状の容器で、身の部分は浅い皿状。穀物、スープ漬物などを盛った。土器としては新石器時代から存在し、青銅器としては西周前期からあるが、増えるのは西周後期以降で、戦国時代まで製作された。春秋時代後期からは細長いフォルムになり、蓋付きとなった。
  • (たい) – 盛食器。球体を二分割して、それぞれを蓋と身とした形の容器で短い足がつく。他の器より遅く、春秋時代中期に現れ、戦国時代後期まで製作された。

水器[編集]

  • (い) – 水器。手を清めるための水を注ぐための器。注酒器の兕觥が原型で、西周時代後期以降、水器に用途が変わり、高台の代わりに四足がつくようになった[35]。盤とセットで戦国時代まで作られた。
  • (ばん) – 水器。匜から注いだ水を受けるための器。殷後期から戦国時代まで製作されている。
  • (かん) – 水器。大型で深い水器。登場は他の器種より遅く、春秋時代中期から戦国時代に製作された。を入れて食物を冷やす、行水用などの用途があり、水鏡としても使われたという。

楽器[編集]

  • (しょう) – 打楽器。上部に吊り手があり、下端は深い弧線を描く。日本の梵鐘と異なって断面は円形ではなくレンズ形である。単独ではなく、大きさと音階の異なる複数個を組にして「編鐘」として用いた。西周時代から戦国時代に作られた。
  • (はく) – 打楽器。鐘に似るが、下部が弧線でなく直線になったもの。春秋時代中期から戦国時代に作られた。湖北随州曽侯乙墓出土の編鐘は鐘64点、鏄1点からなるセットで、これらの総重量は約2.5トンである[36]
  • (どう) – 打楽器。殷代から存在した、下方に柄がついた「かね」で、手に持って打ち鳴らす[37]
  • 錞于(じゅんう) – 打楽器。中空で底のない円筒で、上部がふくらんでいる。

漢字の字形

  • か(斝) – 「口」を左右に2つ並べ、その下に「わかんむり」、その下に「斗」
  • こ(觚) – 扁は「角」、旁は「瓜」
  • し(觶) – 扁は「角」、旁は「単」の旧字体
  • か(盉) – 「禾」の下に「皿」
  • ゆう(卣) – 「占」の3〜5画目の内側にカタカナの「コ」
  • じこう(兕觥) – 「じ」は「凹」の下に「ひとあし